あやや缶

松浦亜弥さんの思い出を語るブログです

オタ活動とネット状況

当時のオタ活動とネット状況を紹介します。

 

2000年はDOCOMOのサービス「iモード」が流行りました。この年の7月にiモード初のカラー液晶画面「F502i」を購入し、携帯電話(ガラケー)生活を開始します。ただし、インターネットが出来ても、PC専用のホームページの閲覧までは厳しく、あくまでも携帯専用のサイトのみ使えるものでした。

 

11月には、携帯電話で簡単にホームページが作成できる「魔法のiらんど」を使い、おニャン子系のサイトを作り、DOCOMOのイメージキャラクターだった広末涼子さんが表紙の「iモード情報サイト」等、複数の雑誌に掲載されました。このサイトはかなり前に消したつもりなのですが、おニャン子系のサイトを見ると、私の痕跡が少しだけ残されております。どれかは申しません、探さなくてよいです。同月にハロショの1号店が原宿にオープン、初日に行列を作りファンとの初交流。この時に知り合ったオタは今でも連絡を取り合っております。この後、PC(SONY VAIO PCV-J15V5 Windows Me)を購入、ネットはダイヤルアップ接続の後にADSLに乗り換えしました。

 

PCのおニャン子系サイトで、モーニングの話で盛り上がっている掲示板を見つけ、2001年1月から私がそのサイトに参加するようになり、この方たちと4月のモーニングのコンサートで合流します。彼らと共にオタ活動が始まり、後にモーニングが次々に卒業し、一緒に動いていたオタ仲間がバラバラの活動になるのですが、それでもハロコンになると集合していた感じです。上記と並行し、携帯用のモーニング大手の掲示板「なっちまり」に書き込みし、そこから何人かが私のサイトにも入るようになり、現場でも合流するようになります。私はおニャン子とモーニングで携帯サイトを盛り上げていたので、雑誌を見て入ったのか、両方好きな同世代の方が新規で書き込みをし、やはり現場で合流します。

 

2001年6月に、公開しているホームページとは別に、非公開の携帯用サイトを作り、仲間内だけの招待制にして、これがまた存分に皆さん活用されました。出入りしていた人数まで把握していませんが、飲み会では20人ぐらい集まるので、延べで40人程度はいた感じです。雑談からチケットのやり取り、宴会の人数確認、何時集合だとかの現場の待ち合わせ連絡等、我ながら大ヒットだったと思います。仲は良かったと思いますが、緊張感がなくなると、衝突する事も度々勃発します。管理が面倒になったので、2004年12月にこのサイトを閉鎖します。私があややに本気を出して、掲示板を盛り上げなくなってしまったのも原因です。3年半で約25,000件の書き込みですから、1日当たり約20件ですね。男子校のノリで濃密でした。私は撤退したので詳しくは存じないのですが、招待制の掲示板は別の方が引き継いだあと、その方自身が問題を起こし、どうもサイトは長くは続かなかったようです。2006年あたりからmixiに移行したはずですが、この頃はハロオタを撤退する方も出て、盛り上がりは欠けていたと思います。

 

2003年9月14日にPC用ホームページ「あやや缶」を開設、2004年12月にブログ「私と私とあやや」も開設し、上記の非公開サイトを閉鎖したあと、こちらを全力で注ぐようになりました。めっちゃキモくて痛いサイトなので、知り合い以外は近寄らなかったです。面倒だから、近寄らせないオーラは発していました。多くのあやオタとは、交流したくなかったのですよ。どうせ意見が衝突するのはわかっていたので、気が許せる方としか仲良くならなかったです。この様な感じなので、オタ活動中に、他のあやオタサイトにコメントを書き込む事は、確か一度も無かった気がします。2004年あたりからブログが流行し、ホームページを作らなくても、各々現場レポートなど気軽に書き込めるようになりました。あやオタの皆さんも、2005年からブログを始める方が続出した感じでしたね。

 

私のオタ仲間は、2001年からおニャン子繋がりで活動したハロオタ(元々はモーオタ)グループと、2003年から知り合ったあやオタグループの2つあります。ハロオタ仲間は私の非公開の掲示板に集まっていた人たちで、あやオタ仲間はそれとは別に少人数でネットワークを作っていました。あやオタ仲間は、非公開の掲示板には呼んでおらず、そのあたりの線引きを考えるのも厳しくなったので、そのサイトを閉鎖したというのも理由のひとつです。

 

2008年7月にオタ活動をやめ、ホームページとブログも一斉に閉鎖しました。このように遊びに関しては、続けていたものを簡単にやめてしまう性格です。あくまでも遊びなので、ストレスが溜まったり詰まらなくなると、もういいやって感じで次に進む感じです。自分では拘りはあったつもりだけれど、意外となかったのかも知れません。公開していたサイトは、中傷とか入ってきたけれど、非公開の方が揉めたりしたので、身内というのもあり、こっちの方が気を使って本当に大変でした。当ブログも、嫌になったら唐突にやめてしまうと思います。そもそも、過去のことを伝える懐古ネタなので、ネタ切れ状態になるかと思います。

 

仲良くしていたオタに、女性はおりません。ハロプロ仲間内のリーダーの忠告により、女子を入れると取り合いに発展する恐れがあるので、男子限定としたのです。我々は男子ばかりでド変態の集まりでしたから、女子は自然に近寄って来なかったのかも知れません。それはそれで楽しかったです。映画「あの頃。」を観ても、そのような感じの雰囲気ですよね。当時のハロプロは、女性ファンは多くはなかったのですが、モーニングよりは、あややの方が女性ファンの割合は多かったと思います。私のイメージでは、特にごっちんのファンは女性が多かったような気がします。

 

私のオタ活動は、独自のルールのようなものを作っていました。コンサートツアーのフルコンプはやらない、遠征する場合は新幹線沿線の近くで本州からは出ない、仕事を優先するなど。やり出したらキリがないですからね。フルコンプをしないように、わざと初日公演を外すという事も行っていましたが、2006年正月ハローは例外でフルコンプしました。大阪と名古屋のみの遠征だったので、1回だけの記念という意味で行動した次第です。遠征に関しては拠点が東京なので、西は兵庫県姫路市、北は岩手県北上市までに留まりました。首都圏の公演が多いので、手広く動かなくても数はこなせたと思っています。仕事を優先していたので、チケットは手配したけれど仕事で行けなかったという事は一度もありませんでした。

 

グッズに関しては、公式生写真とB2サイズのポスターはなんとなく収集していました。コンサート会場の限定品は興味が無かったので、ツアーグッズの類はパンフレットと公式生写真を購入したぐらいです。ただのロゴとか文字だけ入ったグッズって、どこに価値があるのか理解出来なかったので、貰ったことはありますが、買ったことはほとんど無かったです。

 

現場では会場の外でオタ仲間と話すのも楽しく、開演時間の10分前あたりに入っている事が多かったです。このぐらいの時間になると入場列はまず無いので、スイスイ入れます。当時の夏の暑さは今ほどではなく何とかなったのですが、正月ハローの時はさすがに寒いので、開演の30分前とかに入っていた事もあります。

 

ペンライトですが、ほとんどサイリュームを使用し、ルミカの製品を東急ハンズやドンキで購入していました。予算の都合上、電池式のチアライトを一時使用していましたが、明るさと発色がキレイなのでサイリュームに落ち着きました。片手2本で左右使用、サイリュームの留め具にお互いを引っ掛けて、そこに指を挟めば振っても滑って飛ぶ事はありません。サイリュームは折った瞬間が明るく徐々に暗くなるため、あややコンではライブの中盤あたりで使う事にしていました。全体が暗くなった状況で、私だけ明るく目立つので、あややに見てもらいたいという一心であります。使うタイミングは、それぞれのツアーで統一していました。座席が前でも後ろでもやる事は同じ、覚えてもらいたいという下らない理由です。ハロコンでは、当然あややの出番で使います。オタ仲間ではあややで急に明るくなるので、私の席が一目瞭然といった状態だったようです。ハロプロ仲間とタンポポ祭の影響もあり、黄色がいちばん明るく好んで使っていました。

 

あややコンの場合、バラード曲ではサイリュームは使わないようにしていました。聴くときは聴くという感じで、振っている人も少なかった気がします。ハロコンだとあややのソロがバラードしかない場合は、サイリュームは振らずに持っているだけ、とりあえず居場所アピールですね。

 

当時は、LEDの色が変えられるペンライトが存在していないので、色を揃えるサイ祭は、指定された色のサイリュームを買っていたわけです。モーニング卒業ライブの時はサイ祭が恒例となり、1万人以上のオタが使うため、都内ではその色のサイリュームが売切れるという現象が起きます。

 

一時期使用した電池式のチアライトですが、スイッチは捻って金属に接触して点灯する仕組みなので、金属部分が削れて消耗するようになっています。1ミリ程度の厚みのステンレス板をドーナツ状に加工し、金属の上にかぶせて削れを保護するように使っていました。これはオタが金属工場に働いていたので、作ってもらったわけです。

 

ライブの参加スタイルですが、簡単な振り真似とかはやっていましたが、主に曲に合わせてサイリュームを振るぐらいです。ただし、オタの皆さんの振り方からそこそこアレンジを加えていた感じです。オタ芸が広まる前からオタ芸はやっていました。ロマンスは我々のモーオタグループがライブでやっていたので、私も同様の動きで楽しんでおりました。この件は後々お伝えしようと思います。ライブ中の掛け声は喉を傷めそうなので、なるべくやらないようにしていました。オタが少ないアウェーでは、頑張るところだと思って叫ぶ事が多かった感じです。あややコンのMCで、オタとのやりとりがあるじゃないですか。あれは出来なかったですね。気の利いたことが言えないし、あれが出来るオタは天才です。MC中に何か叫んで返すとか、そのような勇気はなかったです。ライブ中は黙々と作業をする職人のような感じだったかも知れません。まあキモい事に変わりはありません。

 

出待ちは一切やらなかったです。ライブの日などは、ある程度移動する時間がわかったようですが、全く興味がなかったです。移動時間を合わせるのが面倒で、コンサートの時間になればそこで会えますから、それで十分でした。そこまでつきまとう行為はどうかと思っていたし、オタという立場は抜きにして、一般的な常識としてやろうとは思わなかったです。

 

オタ話として避けて通れないのがお金の件です。お金の管理が出来ていないオタは、そこそこいた感じです。だから事務所も繁盛するのでしょう。現場オタになった1~2年ぐらいは、要領がわかっていなくて、知り合いの知り合いにお金を貸したら返ってこないという事態が発生し、それからは気を付けるようにしました。

 

あやオタでも知り合いの知り合いで、危なそうな人はいましたね。お金の件は懲りていますから、ある程度は距離を置いていたので、金を貸してくれと催促される事はなかったです。自分の収入に見合う活動をすればよいだけなのですが、他のオタの活動に影響を受けてしまうのでしょう。私も影響を受けたり、受けさせた事もあったと思います。外野が何と言おうと、自分自身のスタイルはブレずに決めておく事は大切です。

 

実際のところ、ヤバいオタって見抜けないところがあるので、自分を守るためにはネットワークを広げすぎない事です。私はオタ活動中も貯金をしていたのですが、これを公表しちゃうと金目当てに集ってきそうな気がしたので、いつも金が無いと装っていました。あやオタとは信頼できる人のみ親しくし、私よりも年上が多く常識人で、仲良く活動が出来ました。あやオタ仲間と衝突した事は一度もありません。

 

私が現場オタだった頃は、AKB商法のようなえげつなさは感じなかったです。ただし、イベントに参加するには運が必要だったと思います。アップフロントは、多少の細かい事は気にせずに大目に見てくれたりとか、オタに対しては優しさのようなものを感じていました。青封筒が届いたら、UFAアップフロントエージェンシー)銀行に振り込むとかよく言っていましたね。ただし、ハロマゲドンなど意味不明な事をやらかす事務所でもあります。

 

オタ仲間を作ると、気が大きくなる傾向があり、味方がいるとか勘違いします。オタの戯言は一般の人には理解出来ないので、キモく見られてしまうのです。私もそうだったと気がつき、かなり反省した次第です。当ブログは当時の気持ちを加味し、キモさ加減もそのままお伝えしようと思います。